伝統的な高級時計製造は、なぜヴィンテージ市場でそれほど評価されないのだろうか?

ィンテージウォッチの収集を取り巻く環境はこの15年のあいだにあらゆる面でさま変わりしてしまい、とりわけロレックスのデイトナには信じられないほどの高値がつくようになった。かつてはヴィンテージウォッチ収集の世界に足を踏み入れさえすれば、1000ドル以下で本当におもしろいものを見つけることが可能だった。しかし今ではそれが現実的に不可能になっただけでなく、あまりに巨額の金銭が介在しているため、ハイエンドクラスでは時計を見ているというよりマネーゲームを見ているような感覚に陥る。

ヴィンテージウォッチ収集を牽引している奇妙な事柄のひとつとして、対象となる時計の本質的な価値よりも、力のある特定のブランドネームや外見にばかり焦点が当てられているように見えることが挙げられる。現在ロレックス デイトナに付けられている価格について、絶対的な意味で特に正しいとか間違っているとかいうことはないし、とりたててPND(パンダ)を非難したいわけでもない。“古きよき時代”が過ぎ去ったことを嘆くのならば、それは簡単なことだ。しかし歴史的に見れば、時計製造のよし悪しはブランドの名前自体ではなく時計のムーブメントに込められた職人技術の質、そして素材のクオリティによって決まると考えられてきたのである。

1923年製パテック フィリップ ラトラパンテ クロノグラフのムーブメント(ヴィクトリアン ピゲ社によるエボーシュ)。
ThePuristS.com(現在はPuristsPro)で何年も前に行われたディスカッションを覚えている。そこでは時計にかなり造詣の深い新参の男性が、「高級時計と大量生産される一般消費者向け製品との違いが、精度の高さではないとしたら何なのでしょうか」という、至極もっともな質問をしていた。時計職人として常勤しているという司会者からのそれに対する答えは、「お答えしましょう。納得できないかも知れませんが、仕上げです」というものだった。

ムーブメントの仕上げについて評価するのは、いくつかの理由からとても複雑だ。まず第1に、何世紀ものあいだに、ムーブメントの仕上げとは何であり、それがどのように施されるかは劇的に変化してきた。現在、我々が上質な仕上げと考えるもの、そしてそれに関連するムーブメントデザインのスタイルは、19世紀後半の スイス・フランス学派の産物である(例えば、19世紀末から20世紀初頭に見られる高級イギリス製懐中時計は、一般的にジュネーブやジュラ地方のものとは明らかに異なる外観を呈している)。第2に、我々がムーブメントの仕上げに何を求めるかは、シースルーバックから見えるものによって判断されてきた。シースルーバックはごく一般的な仕様(特にロレックスの時計など、いくつかの特別な例外もある)であるため、そこでは実に多種多様なレベルの仕上げを目にすることができる。そこでは、“シースルーバック仕上げ”とでも呼ぶべき、消費者が目にする部分だけに表面的に魅力的な仕上げを施すという方法の台頭という問題も生じる。そして第3に、時計のムーブメントの仕上げに関する教材はとりわけ英語ではほとんど存在しない。ムーブメントにおける優れた仕上げを示す基本的な視覚言語や、どこを見るべきかについて書かれた資料は驚くほど少ないのだ。

パテック フィリップ Cal.CH27-70Q(レマニア2310ベース)。

しかし、歴史的な観点から見ると、高級時計製造(オートオルロジュリー)の基本的な特徴のひとつであったムーブメント仕上げの技術が重要であったことに変わりはない。さまざまな装飾や準機能的な仕上げの技術は、優れた時計に常に期待される基本的な要素であり、時計製造における偉大な皮肉のひとつであった。ムーブメントの仕上げがクオリティ的にピークに達していたころ、最高の仕上げの大部分は堅固なケースバックの後ろに隠されていた。

オメガ スピードマスターに搭載されたオメガのキャリバー321/レマニア2310。

最近のヴィンテージウォッチ収集の現場で本当に不思議なのは、このテーマがほとんど議論されず、オートオルロジュリーのこうした側面への関心がコレクターの興味を引きつけたり、オークションでの売上を促進したりすることがほとんどないことだ。時計の価値との相関関係は、残念ながらゼロに等しい。これはある意味ハイエンドのコレクターに多く見られる現象だ。美的感覚で収集される資産としてアートが数えられるようになって久しく、同様にワインも日常的に莫大な金額が動くにも関わらずそれによって酔うことは決してないし(悲しいことに誰かを酔わせることもない。ディオニュソスの子よ、ガラスの牢獄のなかで静かに泣け)、たいていの場合もう飲めなくなってしまっている。

つまり、ヴィンテージウォッチ市場に今起こっていることは、単純に時計収集が成熟し、これまでファインアートにしか向けられてこなかった資金と関心を集め始めたことの表れだと考えることもできる(ニューヨーク・タイムズ紙が2013年に“Art Is Hard To See Through The Clutter Of Dollar Signs”で指摘したように、アートは今や、かつて第一世界の国家が大規模な兵器体系を取得するために留保されていたような資金を引きつけている)。このことと世界中で相互に結びついたコレクター層による富の創造と集中が相まって、ヴィンテージウォッチ収集をいわゆる高級時計収集と同じ方向へと向かわせたのだ。

また、昨今では高級品の購買は品質よりもブランド力によって左右されることが多くなっており、その風潮はますます強くなっている。結果としてその品質は、ブランドアイデンティティを維持するために必要とされる最低限にまで落とされる傾向にある。これは言うまでもなく、製品の質の高さによってブランドが評価されるのとは対照的な現象である。

ヴァシュロン・コンスタンタン 天文台トゥールビヨン、1931年製。

それにしても、この種のコレクターズアイテムにおいて品質において最も基本的な指標のひとつであるムーブメント画像がほとんど話題にもならず、販売促進にもそれほど貢献しない(オークションハウスはムーブメント画像をまったく見せないことが多いが、これは単にコレクターが一般的に何に興味を持つか、あるいは興味を持たないかを反映しているに過ぎない)のは、実に不思議なことだ。

もちろんそれには理由があるのだが、奇妙なことに変わりはない。しかし結局のところ、それは驚くべきことではないのだろう。ここ数年、世界の時計コレクターのコミュニティが、市場に出回るあらゆるものの真贋を無批判に受け入れることに意外にも抵抗感がないことを、我々は目の当たりにしてきたのだ(ファインアート市場において、少なくとも合理的な科学的検証や、もっともらしい管理体制が試みられているように見えるのとは対照的である)。もちろん、人々が収集しようとする理由はさまざまだ。もしあなたが時計製造における伝統的な職人技の表現を好むひとりであるならば、その好みを満足させるだけの多くの時計を見つけることができるだろう。